ときどき日記 その5





 第41話 地震体験

宮城の今回の地震は、金曜日の夜遅くに1回目の地震があって、次に本震が土曜日の朝7時ごろだった。金曜日の夜にそんな大きな地震が東北地方であったなんて知らなかった私は、土曜日の朝、寝ていたらなんだか、大きくゆっくりと揺れるのを感じた。本棚とかがゆっくりと揺れているのが分かった。半分夢の中みたいだけど、半分冷静に、これって遠くの地震かなあ?テレビをつけて地震の様子を見に行こうかどうしようか?結局、まだ眠たかったので、再び夢の中に突入。


もう一眠りして、起きてテレビをつけたら、宮城県の方が大変な騒ぎになっていた! 週が明けて会社に行って回りの人に聞いても、誰も地震を感じた人がいなかった・・・・ 自分としては、大きな船に乗っているような揺れで、東京も震度2ぐらい?はありそうと思ったのでけど。 とにかく実感している人がいなかったのはちょっと意外だった。


同じような体験が、あの大きな阪神大震災の時にあった。東京では揺れているというほどではなかったはずなのに、ちょうどその時間に私は、何故かむくっと起き上がって、異変を感じたのだった。今の家とは違うところに住んでいたのだが、ガラスの扉がついたリビングボードが微かに音をたてているのだった。揺れたというよりも、「なんか変!」っていう異変である。熟睡していたのに、突然何の脈絡もなくて、その瞬間だけ起きてしまったのだった・・・・。たまたま寝ぼけ眼で時計をみたら、阪神大震災の発生時刻だったのが後で判明。


そんな話をしていたら、友人から「なまずみたいじゃない」って言われた。でも、なまずは地震予知だけど、私のは予知ではなくて、単にその瞬間に感じるだけなんだから、なまずほど使えないのだ(苦笑)


関東大震災がいつ起こっても不思議ではないけれども、地震は本当に怖いです。。。。 


自分自身で一番怖かったのは、1998年の焼岳付近の群発地震のときだった。一番ひどい瞬間に前穂高岳の紀美子平付近にいた私でした。(^^;)あの時は、山という特殊な空間なので、自分の家に帰ればよかったが、生活の場が、本当の大震災にあったら、どうなってしまうのか・・・・ 被災地の方々の復興を祈らずにはいられない。


いつか、このときの地震体験の穂高レポートを作ってみようかなあって思っている。
                                                  (2003年7月31日記)



 第42話 4階が消えた日

突然、私の勤めているビルから4階が無くなってしまった! といっても、物理的でなく、4階の表示が無くなったのだった。よくホテルや旅館などでは、4とか13の数字は縁起がよくないので、その数字の部屋や階がないことはある。 しかし、オフィスビルなのに、え〜〜!!


実は、このビルは日本を代表する大メーカーの本社ビルだったのが、ついこの間同業者と2社合併して、もう一つの会社の方のビルを本社ビルとすることになった。もともと、不景気な業界なので、前から全然関係ない会社(私の勤めている会社もそうなのだが)を20階ぐらいのフロアのうち半分近くをテナントに貸していた。今度の合併で残っていた本社機能がほとんどいらなくなったので、ほとんど全館テナントビルのようになってきた。(場所の割りに、ビルが古いのでお得な賃貸料が受けているようだ)


肝心の「元4階」のフロアには、これまた、半分倒産しかかっている瀕死の重体の流通業界が最後の生き残りをかけてグループ企業となった会社のある部門が引越してきた。1フロアーの4分の3ぐらいを占めことになった。まさに、「4→死」な〜んていう縁起のよくない数字は絶対に勘弁してくださいって感じである。(結局2階と3階が2M、2Fという表示になった。)


このビルにとってはそんなに広い面積を占めているわけでもないこの流通会社は、そんなには広くないフロアに300人以上もの人間がひしめいているらしく、朝はエレベーターラッシュ、昼はあまりの人数の多さに2交代制をとって社員食堂に押しかけている。いままでは、割と閑散としていたメーカーのおっとりしたムードのビルに流通業界の全く血の違う人種がたくさん来ていて、見ていておもしろい。


エレベーターの会話で、うちの会社の人が聞きつけた会話によると、「歳のころは50台半ばぐらいの部長さんらしきが、5時半ぐらいになって、とにかく自分が会社にいては部下がパソコンをいじれないので、はやく用事を済ませた人間は帰らないとならないんだ。参った、参った・・・」というものだった。人数分の机やパソコンは部長と言えども1台はないらしいのか?外商部門なので内勤の人は少なく、外回りの人は多くを共有としているのでしょう。。。たぶん通常のオフィス定員の2〜3倍ぐらいの人数が押し込められている感じなんでしょう・・・


ちょっとした異業種交流って感じで、見ていて面白い

                                          
(2003年8月6日記)



 第43話 日航ジャンボ機墜落から18年

8月12日は日航ジャンボ機が御巣鷹の尾根に墜落して、520人の方々が亡くなられた日である。あれから早いもので18年が経った。


誰でも、大きな事故や出来事の時に、自分はあの瞬間どうしていたか・・・という記憶というのがある。例えば私よりももう少し上の世代だと、ケネディー大統領暗殺の瞬間とか、アポロ13号の月面着陸の瞬間とか終戦の時の光景とか・・・・。


私にとって忘れられないのは、18年前の8月13日の早朝、私は大学の山岳同好会のクラブ合宿で北アルプス・白馬〜唐松岳のの天狗山荘のところのテン場に仲間6〜7名?と一緒にいた。これから不帰キレットに向かおうという朝である。


仲間の一人が、出発の5時頃に天気予報を聞くためにラジオを何気なく付けたところ、延々と人の名前が途切れなく読み上げられている!! これは何か起こったぞ・・・・ ただ、出発の忙しさで、何が起こっているか全くわからないまま歩き始めた。その日は前の日までのガスや風雨の天気と違って、朝から快晴であった。後輩の女性1名が不帰キレットで、慣れない高度感でやや顔をひきつらせていた他は、まずまずの感じで唐松岳に到着。ここには、山岳パトロールの人が座って双眼鏡や無線を使って不帰の状況を監視していたのを覚えている。


このとき、初めてジャンボ機が墜落した、まだ場所の正確な把握もできていない、群馬県方面であるぐらいの話しを確かその山岳パトロールの人から聞いた。とっさに北アの稜線から群馬の方の山と空を探した。そのときの情景が今でも目に浮かぶ・・・・。まばゆいまでの夏山の風景が広がっていた。


そのまま唐松岳から八方尾根を下山してきて、たぶん、白馬駅か松本駅の乗り換えで列車を待っているときの待合室かどこかで、不思議な光景を見た。女の子がヘリから吊り上げられている。私はなんだか訳がわからなかった。確かに生中継のようなのか?山から降りてきて、よく状況が理解できていないけど、何故か遠い世界の不思議な光景を見るような気分だった。


日航機墜落に関しては、もう一つ忘れられないことが。。。 私の知人が、なんとその飛行機の乗船名簿に載っていたのだ。その人は四国徳島の出身で、夏休みに帰省するところだった。今でこそ、四国は列車や車でも本州とつながっているが、まだつながっていなかった。当時は飛行機が便利なのだが、直行便が取れずに、大阪経由で四国に帰ろうとしていたようだった。


その知人の名前は割と珍しい名前なので、テレビにずっと遭難者として何度も読み上げられたということだった。私はその放送で名前を呼ばれているのは知らなかったが、他の多くの友人達も聞いたという。


ところが、本人は、帰省の直前に第一希望の就職先の日本最大の某電話会社の最終面接が決定して、電話で呼び出し。急遽帰省を取りやめたとのことだった。急なことだったので、席をキャンセルしなかったせいで放送で流れてしまったのだという。本人は諦めかけていた第一希望だったので、放送されているなんて気づかずに就職のことに心を砕いていたとのことだった。
(それにしても、今の就職戦線は3月とか4月とか5月に決まるというのに、随分当時は遅かったんだなあ。。。とこれまた時代の流れを感じるもんです。)


人生の岐路は、ほんの僅かな神様の裁量のお陰で決まってしまうのだということを、目の当たりにした。多くの尊い命が失われた教訓が、ちゃんと航空業界に生かされているようにと思うと同時に、亡くなられた方々のご冥福を祈る。
                                         
(2003年8月14日記)


 第44話 西穂山荘見聞   (この日記の山行記録は焼岳&涸沢レポ参照

初日の西穂山荘ではお天気よくて、山荘の前の広場も広いので、暇でぼーっとして、いろんな人が集まっているので、人間ウオッチをしてました。


いわゆる団体旅行のツアー客も多く、ファミリー登山の人も目立ちました。子供さんが、一生懸命夏休みの宿題のために高山植物をスケッチしたりするほのぼのした光景も見られました。日帰りの人も多いみたいです。北アルプスと言っても、ロープウエイを使うとアプローチしやすいので、槍ヶ岳とか穂高岳等とはちょっと違ったハイキング的な人も結構目立ちました。


小屋よりも少し上までお昼寝に行っていると、メットを持った人達が何組か奥穂〜西穂を終えて降りてきました。見ると、いかにもガイド登山の人達もいました。西穂山頂か遅くとも独標あたりでメットは暑いから取ればいいのに随分暑そうに下まで付けているのには驚きました。


また、夕方割と遅くにロープウエイ方面から、大きなザックとメットを持ったパーティー(50台後半〜60台だろうか?)3名が登ってきました。特に先頭の人のザックは巨大でザックも斜めに担いでいて足元もふらふらとした足取りでこの人達も奥穂に行かれるのかと思うのですが。たぶん大ベテランで登った経験もあるのかもしれませんが、かなりお疲れのご様子や既にここまでで時間もかかっているようなので、人ごとながら心配です。恐らく山岳会の人なので、小屋泊まりなぞ厳禁もってのほかなのでしょう。(たまたま翌日雨で上高地ですれ違ったので、縦走せずに上高地側に下山されたようでほっとしました。苦笑)


またヘリが飛んで行ったなあ、そういえばさっき診療所の方から若手の医者?とレスキュー隊が登っていったと思っていたら、後で判明したところ独標の先で、女性が登山道で転倒して腕を骨折。この女性は、かなり救出までの間の時間に多くの人が痛々しい様子をみていたようでした。さらに、私が目撃していない午前中にも奥穂〜西穂間で滑落で重傷?で1名ヘリでレスキュー。山岳救助もまさに夏山真っ盛りで大忙しという感じでした。


自分にとって一番印象的だったのは、私が上高地から西穂山荘に登る途中で出会ったガイドパーティーは、全員50台以上ぐらいでえらく元気なおしゃべりおばさまとお疲れ気味のおばさまを含む8名前後の人達がいたのですが、翌々日涸沢から彼らが降りてきている所をすれ違いました。。「あー、あんなにひどい雨の中でもガイドがいれば縦走できちゃうんだ!」ってちょっとなんともいえない複雑な心境になりました。自分にとって楽しいかどうか、バリエーションルートとまでは言えないところをガイドを使っていくのはなあ〜。私も50代になるまでに西穂〜奥穂を登れなかったら、そのときは考えようかな?(笑)←まだ大分先だけど。。                           
(2003年8月19日記)


★追記
3週間後、最トライ!無事に西穂〜奥穂〜北穂を登ることができました。 ふぅっ〜〜 !!




 第45話 スパッツの話 第2弾

以前、ここの日記で「スパッツの謎」というのを書いたが、私のスパッツが、今回の山行でご機嫌を損ねたらしく(単なる寿命とも言えるが)、片方の膝のあたりのゴムがゆるくなってしまっていて、数歩歩くたびに落ちてきてしまう。もう片方もイマイチ。ストライキを起された気分?!(苦笑) 


結局、西穂山荘から焼岳経由で上高地まで6〜7時間中、数分おきにスパッツを手でずりあげていた次第(苦笑) この時間的ロスは結構なもんだった。また、何故か石が靴の中にも入ってしまって、焼岳小屋のところで、片方のスパッツをファスナーを下ろしたところ、泥泥でファスナーが泥を咬んでしまって、ファスナーが戻らない、これまた10分以上時間かけて悪戦苦闘。結局、貴重な水をファスナーに少量かけて洗うようにして、なんとか戻した。上高地まで来ると、道も良いので、スパッツを外して雨具のズボンの裾をなるべく絞って歩いていたら、こちらの方がよっぽど快適でした。


翌日はスパッツはせずに歩きましたが、増水した登山道も、スパッツをつけていたら、もう少し靴への浸水が防げたかもしれませんが、あそこまで、靴全体が水浸しでは、そうそう効果は疑問かと思いました。(靴自体の皮の防水性の方が問題か)


そんなこともあって、スパッツを買い替えようか?と思って、登山用品店をのぞいたところ、色々あって面白かったです。私の中では「スパッツ=雪と雨の侵入よけ」とていうイメージだったのですが、現在は、「雨専用」の物が極めて薄地で売っているのでした。注意書きに「アイゼンをひっかけるとすぐに破れますので、雪山には絶対に使わないでください」とあった。はは〜ん、夏でも平気で付けている人達は、こういう薄地のものを、付けているのかもなあ〜って思うのだった。軽量で雪山用の数分の一の軽さであった。


それと、最近見かけるのだが、スパッツを雨具の下に付ける人がいるけど、あれはどうなのかなあ?諸説あるようだけど、どっちがいけないとか、正しいとか、そういう訳でもないだろうけど、長く自分は習慣として、雨具の外に付けているので、やっぱりちょこっと違和感感じるものでした。


スパッツの一番の役割は、やっぱり雪の侵入を防ぐものだと個人的には思っているので、単なる泥除けだけの要素ならば、軽い夏用のスパッツでよいのかもしれない。結局、スパッツは山スキー専用のあまり使っていないのを持っているので、しばらく購入は見合わせました。

★後日談
この日記にスパッツの話を書いたら、「薄手のスパッツは雨具の下に付ける方がよい」という指摘を友人から受けた。その理由は、スパッツの膝あたりにあるゴムの所が、雨具の上から付けると、そこで上からの水が流れるのがゴムで堰きとめられるような形になって内部に水が染み込む可能性があると言われた。逆にスパッツの上に雨具を着ると、スムーズに雨具の上から流れ落ちる水滴を阻止することなく、またスパッツも泥除けとしてはより一層機能を発揮しやすいとのことだった。 言われてみればなるほど・・・
そんなわけで、是非今度はスパッツの上から雨具をつけるためにと思って、春のバーゲンで、薄手のスパッツを超格安で売っていたので、まずは買ってみました。試してみるのが楽しみです。♪
(2003年8月31日記)


 第46話 仕事との相性

以前この日記の6月23日の掲載で「救急車騒動」というのを書いた。職場の同僚が倒れて救急車で搬送されたという話である。彼女自体は、去年の秋には、あまりの体調の悪さに一時会社に来れなくて、最近ではやや持ち直して頑張っていたが、食事がのどを通らないと言っていた。


残念なことだが、今度の9月末に退職することに急遽決まった。本当に残念なことだが、致し方ないだろう。実は、彼女も会社の機構改革という名のもとでのリストラの犠牲者の一人である。


もともと去年の6月まで彼女は全く別の種類の仕事をしていた。その部門全体が、東京近郊は土地も人件費も高いので、職場機能をかなり遠方の地方都市に丸ごと移管して別会社にしてしまった。余った人材は各所に配置された。ほとんど女性ばかりのデータ管理部門だった。入社4年目の夏に異動したのだが、今までデータ相手の仕事で、交渉らしい交渉はしたことなかった。


それが、私の勤めている部署はほぼ100%が会社外部との折衝であり、全く慣れない仕事でものすごく大変だったようだ。担当先も、なかなかシンドク、特に電話がメチャクチャ多い。指導員もついたが、その指導員自体も体調不良で長期欠勤の上、4月末に早期退職制度でリタイア。周りの人間が、色々と手を差し伸べようとしても、「新人でないんだから、がんばんなくちゃ」という感じで、助けを拒否?して、ストレスを溜め込んでいた。


一番やっぱり辛かったであろうことは、仕事の性質が、今までの仕事は、毎日きちんきちんとデータを解析していけば、その日のうちにちゃんと結論が出て、気分爽快?という仕事だった。ところが、今の仕事はほとんど毎日解決されないまま、どんどん仕事が溜まっていき、ある歳月が物事を解決するという性質である。仕事は蓄積されていくが、そういうのは気にしないようにしないとやっていけない。


彼女は残念なことに、かなりキチンキチンとした性格で、ある種の完璧主義?で、今の仕事がより一層辛く感じたことだろう。ある種の図太さがないと、絶対にやっていけないので、本当に性格に向いていない仕事で可哀想だった。逆に、前の仕事ならば、緻密さが要求されるので、とてもマッチしていたように思う。


会社の機構改革さえなければ、楽しく健康を害することなく勤められたであろうが。。。会社生活はやっぱり厳しいもんだと痛感する。
                                       (2003年9月2日記)


 第47話 西穂〜奥穂〜北穂山行の見聞録 
                         
(この日記の山行記録は西穂〜奥穂〜北穂レポ参照

今回の山行での人との出会いの中で、一番興味深く思ったのは、ちょうど北穂高小屋の夕食で正面に座った方との会話だった。その方は、今年ちょうど70歳の単独男性。この日は、岳沢ヒュッテから前穂〜奥穂〜北穂と一気に縦走してきた、なかなか健脚の方だ。明日はキレットを越して、南岳あたりまで行って、氷河公園経由で下山すると語っていた。


既に100名山は去年までに奥様と一緒に全部踏破。今回は奥様を連れて歩くには躊躇する岩稜コースということで一人で来ていた。明日予定通り歩けば、3000m峰の全制覇にもなるらしい。その彼が、私が今日は西穂から来たと言うと「実はそこに行きたくて、今日のコースもトレーニングのために来たんですよ」という。


聞くとちょうど20年ぐらい前に登山を始めたというので、私と大体同じ頃であり、親近感がある。「百名山はお金と時間さえあれば、誰でも登れるんですよ。でも西穂〜奥穂のコースのようなところは、それでは無理なんですよね・・・。どうしても行きたいから、無事今回の山をこなせたら、来年あたりはガイド登山でもいいから、行ってみたいもんですな。こんな歳になったら、見栄とかそういうのは捨ててでも、やっぱり行っておきたい」と熱い気持ちを私に語りかけてくれた。本当にそういう気持ちは私にはわかる。


私自身は、経験を一つ一つきちんと積んでから登りたいと思っている方である。ガイドや、あるいは自分よりも遥かに実力のある人に「連れて行ってもらう」式のものでなく、単独或いは同じような仲間と一緒にやり遂げたいという気持ちが割りと強い。少なくとも、一般縦走のような形であればそう思っている。(ザイルが本格的に必要になってくるバリエーションルートならば、技術の占めるウエイトも高いので、自分よりも上のレベルの人の力も借りて行くことも必要だと思っている。)


先の70歳の方も、ガイドを使うことに関しては抵抗があるようだったが「やっぱり歳には勝てません」ということだ。今でも十分パワーもある方なので、恐らくあと5年か10年若ければ十分楽勝で体力的にはこなせたような感じがする。(今でも大丈夫そうな感じはするのですが。。。)


どこを優先して登るかということがやっぱり結構重要だと思う。順番の選択を誤ると、登れる山も登れなくなる。。。その方との出会いでそれを強く感じた。


山行記録に載せなかったが、もうひとつ驚いたことがあった。奥穂にちょうど12時頃までいたのだが、降りようかなと思っていた頃に、近くにいた男性に写真を1枚撮ってと頼まれた。渡されたカメラは、ペンタックスのメカニカルシャッターの一眼レフで、たぶん20年以上は使い込んでいる、昔のカメラならではのズシリとした重さのものだった。


その方は、今朝、富山の自宅を出て、7時半に新穂高に着いて、白出沢を登って「奥穂高山頂まで、4時間半!!!」で到着したという方だった! それも、謙遜しながら、「いや〜〜、還暦も過ぎたし、奥穂はもう何回も来ているから、証拠写真も1枚でもあれば十分。今日もまずまずの感じで登れたし、これから帰ります。」という会話を交わした。私はこのルートは歩いたことないが、標高差1880m、コースタイム登り9時間50分!下りでも7時間ぐらいと書いてある。下りの人では4時間程度で降りられる人も結構多いようだが、登りでその時間!!それも60歳を過ぎているという!!


いや〜〜、世の中には凄い人がいるもんだなあ〜と、えらく感心してしまった。こういう人が、富士登山競争みたいなのに出場できるんだなあと思った。


実際、お腹なんか出ていないし、贅肉もない、すっとした立ち姿がまだまだ50代ぐらいで若若しい。還暦???って感じである。ザックの使い込んだ感じからみても、相当にずっと継続して山を続けてきた方なんだと想像した。


さらにもうひとつは、これはちょっとした「謎」なんだけど、西穂〜奥穂間で、朝2番目に交差した人は歳の頃は20代後半〜30代前半?の女性だったが、少し道の様子を聞くのに会話を交わした。静かな感じの女性だったが、今でも容姿を覚えているほど印象的な人だった。というのは、睫毛にマスカラを塗ったように目がばっちりしていて、えらく目が強調される感じの美人?だったからだ。


いまどきの若い人は、睫毛をカールやマスカラをする人が多い。まさか、山でマスカラをしたら汗で流れてパンダになるからするとは思えないが。もともとの睫毛がそうなのかもしれないが。髪型も、有名なモデルの山口小夜子さんみたいなおかっぱ風のロングで日本風な感じで、なんか不思議な感じの人が突然現れたので印象的でした。あの睫毛は朝にピンカールさせたのか、自毛なのか?? 変な謎をかかえてしまった(苦笑)


この美人の話(美人かどうかは人によって好みがあるんで、なんとも言えませんが。。。。私的に言えば、全ての人をタヌキ型とキツネ型という分け方をするならば、タヌキ型のちょっと愛嬌のあるようなかわゆいタイプが好みなんだけど。。。←女の私がそんな事言って変かな?! キツネ型のちょっと冷たい感じのする整った美人系は、MINMIN好みではないんです。自分も二つに分けちゃうとタヌキ系人種なんだ〜〜 お友達もみんなタヌキ族だ〜〜。)に関連して、後日この謎がなんとなく解明された。


会社の後輩に聞いたところ、それは多分、○○○○○(多分五文字ぐらいのカタカナ名。聞いたんだけど、もともとあんま興味がない分野なんで覚えられなかった トホホ・・・)という5年ぐらいは持つであろう一種のアイライナーをしている可能性があるなあ・・・・ということでした。簡単には落ちない黒いイレズミみたいなもんを目のふちに入れるのだそうです。永久的にするのもあるそうだけど、それだと値段が張るらしいですが、5年ぐらいもつのだと割りと安くて流行っているそうです。(ついでに言うと、眉毛もできるそうですが、眉の形には流行があるので、お勧めでないそうです。)


ふーむ。。。。。 あまりにも、「お目めがパッチり」だったし、睫毛がくる〜〜んとしているのは、睫毛パーマっていうのもそういえばあるなあ。。。 


いや〜〜、あんなに本当に自前でお目めがパッチリしていたら、さぞやいいだろうなあ・・・・。女性の私が見ても、「えっ!」て感じだったから、さぞや男性が見たら〜☆!☆!〜 だろうなあ〜〜〜。


彼女ぐらいの人ならば、若い男性はほっておかないではないかと思っちゃうけど、やっぱ独りで歩いているんだよね。。。まあ、他人事だけど、静かな感じの人だったから、単独行が根っから好きなのかなあ〜〜〜。(そういう自分は?って聞かれると、少なくとも静かではないです。←爆笑 )
                                     
 (2003年9月17日記)


 第48話   行動時間に関しての考え方 
                                (この日記の山行記録は霞沢岳レポ参照

秋のこの時期の山行は、日照時間も短く、夏の時期に比べて行動時間が長くとれず、そのあたりをどう考えるか悩ましいものである。


今回は本当は徳本峠に行くのならば、島々宿から一度は登ってみたかった。しかし、現在私の足である電車は夜行列車の急行アルプスが廃止、平日の夜行発ができないのである。したがって朝東京を出発せざるをえない。


今回は上高地に到着したのが、昼12時。徳本峠まではコースタイム3時間半なので、テントを背負うと著しく亀足(実際はそこまで遅くないが、気分は亀さんなので)の私では休憩こみでは4時間強ぐらいを見込んでいた。日没が5時少し過ぎなので、まあ日没1時間前に到着なら、自分としてはまあ安全圏内・・という感覚であった。(遅くならないように一生懸命歩きました。)


さて、徳本峠で私はまったり夕食など食べてテント内でゆっくりしていた5時頃のこと。私のすぐ脇にテントを張ろうしていた単独の女性有り。彼女は、40代後半から50代前半ぐらいの方だった。ICIのゴアライトの2〜3人テントなのだが、10分近くたってもテントが建たない。ポールのバネが強すぎて差し込めないのであった。あまりに見かねて、助けてあげた。確かに少しキツイ感じであったが、本人がかなり疲労しているためもあったようだ。


それもそのはずだ。私と同じ特急で朝東京を発って、島々宿から11時頃から歩き始めて約6時間で登ってきた模様である。コースタイムで7時間ぐらいの行程のはずである。普通に歩いていたら、日没後の6時過ぎにしかテンバには着かない。今回は幸いなことに、コースタイムよりも結構早く着いたのでよかったものの・・・。本人曰く、岩魚留め小屋通過を3時を目安に考えていたので、それよりも早く着いたから先に進んだという。テント装備の、それも3〜4泊の予定というので決して軽くない。水さえ持っていれば、テントの場合究極は張れる場所があれば大丈夫だが、今回は彼女は十分な水は持っていなかったようで、私に水場を聞いてきた。


ふ〜〜む・・・。いつも、コースタイムよりも早く登れるという人であっても、軽量な日帰り登山や夏山ならまだしも、つるべ落としの秋の日に、テント場に日没ぎりぎりとか、日没後の到着を最初から考えて計画を立てるというのは自分としては全く理解しがたいものであった。正直な所、極めて屈強な若い男性だとか、足の揃ったパーティーとかならば、この時あまり心配しなかっただろう。人数がいれば万一の時にも、対応が可能なことも多い。しかし、彼女は中高年で、現に相当疲れて、一人ではテントを立てられないのが実情なのである。


しばし、絶句してしまって考えこんでしまった私であった。
その後もなんとなく話を聞くと、島々宿からのコースは初めてで、燕岳かもうひとつ先(餓鬼岳か?)までできれば行きたいという。(でも、燕岳まで長いよな〜、天気悪くなって吹雪にでもなったらどうするんだろう〜?)本人の弁曰く、常念岳を越すのだけが大変で、あとは楽勝みたいなしゃべり方だった。小屋泊まりの比較的軽装ならば、そんなきつくないコースではあるものの、テントでそれなりの重さはあるので、それなりに長くは感じるだろうけどなあ・・・・。


私が次の日は霞沢岳に行き、翌々日は蝶ヶ岳まで行く予定という話をすると、「なんで蝶あたりまでしか行かないの?」みたいなちょっと馬鹿にした?ような言い方だった。(私は、徳本峠〜蝶ヶ岳までが行ったことないコースなので、そこが行きたいのであって、展望の一番おいしい所も蝶あたりなので。。。)


なんか、装備やストイックな感じのする女性だったので、「山岳会にお入りですか?」と尋ねたところ、まるっきり独りでやっているという。ふーむ・・・


たまたま彼女の行動ををきっかけとして、行動時間に関しての考え方を思うに、自分の場合最初に学生時代に徹底して安全教育されたことがベースになっているようだ。


それは、テントの場合は午後2時までを到着目標が理想。(南アに昔縦走したときは、毎日昼13時から雨が日課のように降るのでそれ以前に行動終了。)理想は2時でも、実際はもう少し後になることが多いが、そうでなくても、日没時間の1〜2時間前には遅くともテンバには到着。当然、行動時間もコースタイムプラス余裕を持った時間を足して計算。(コースタイムよりも自分は絶対早く歩けるんだということは考えない。山では捻挫や体調不調はありえるので)当たり前だけど、テンバに日没時間ぎりぎりに到着では、暗くなってテント張り、水汲み、料理など全てをやることになるのは大変だ。


逆に雪の季節は、水の確保ができれば極端な話どこでも張れるので、そういう意味ではテンバにとらわれないで済むので大変助かる。(それでも水作りや、適正地を探すことも考えるとやっぱりある程度余裕の行動が大切だ。)


小屋泊となると、いくら山小屋は宿泊を拒まないといえども、できれば4時には到着しておきたいと考えている。最近、夜の7時以降にも到着する人がいるが、やむを得ない事情ならばしようがないが、最初からそういう計画の人もひょっとしているのかもしれないと思うと、ぞっ〜〜!とする。下界の旅館やホテルと勘違いしているんですね、こういう人達は。。。。 でも、旅館などでも、夕食は6時とかが多いだろうから、それを原則山小屋は予約なしなので、泊める方も大変である。


彼女とは少数派の単独テント泊の女性という同じ立場ながらも、ずいぶんリスクに対しての考え方が違うんだなあと思うと同時に、流行の行き急ぐ中高年登山者の在り方を垣間見た気がする
(2003年10月13日記)


 第49話 HP開設1周年を迎えて

おかげさまでHPを開設して、10月20日で1周年を迎えることができた。最初は、そんなにマメに更新とかできるかとっても疑問だったが、結構できてしまって、自分でも驚きだ。そんなに山行回数が多くないのも幸いしているのだろう(笑)


もともと学生時代から、コースタイムとか山日記を作るのが趣味だった。山はよく言われているように、計画するのが楽しくて、実際に山に登って楽しんで、後から記録を整理したり、読んで楽しむっていうのの3つの楽しみがあるという。


社会人になってからは、コースタイムだけはつけていたが、なかなか記録を作るのができていなかった。コースタイムもいい加減なメモ用紙とかに書いたのもあって、失くしてしまったのもあった。さすがに海外に行った2回の山行はきっちり作っていたが、日本の山は特に仕事が忙しかった時の頃の山日記は全くない。


HPを作ってからは、実は自分のために作っている部分も多いけど、きちんと記録がそれなりに整理されてきて気分がいい。もちろん、誰かが山に行くときののお役に立てればもっと嬉しいって思ってレポを作っている。


自分のHPで心がけていることは、一応山行記録として発表しているのだから、コースタイムはきちんと入れるようにしている。正直な話、あんまり速く歩けているわけでもないし、随分遅い奴だなあって・・・呆れられているかもしれない。しかし、「記録」である以上は、一応ある程度は時間は記入しておきたい。そうでないと、単なるエッセイ、単なる自己満足ってことになってしまうからだ。


他の人のHPを見る時に、この人はいつもどんな感じで山に登っているのかってことを是非気を付けて見て欲しいと思う。自分とは体力や経験が全く違う人の記録なのだから、「この何割増し、あるいは同じぐらいで大丈夫かな?」ということを常に念頭において読んで欲しいと思う。あくまでも、他人が登れたから自分も同じように登れるっていう風には思うようでは困る。 


よって、そんな参考にして頂くために、あえて恥ずかしいんだけどコースタイムを載せてます。本当はもっとウサギさんのように速足だといいんでけど、せめてウサギさんにあやかるようにウサギさんの仮面をつけて、「MINMINの麗しき山旅」を今後も頑張ります〜〜♪

★今後とも宜しくお願いします★
(2003年10月22日記)


 第50話  去年の長谷川恒男カップの話

約1年前、日本山岳耐久レース(通称ハセツネカップ、長谷川恒男カップ)に自分は参加した。知っている人にはとっても有名な山岳レースだ。大まかに言うと24時間以内で、東京の奥多摩の山々の約71.5キロを走破するものだ。ヒマラヤなどでの高峰の最終アタックには24時間ぐらいかかることもある。そのために登山を志す人に長時間歩行をする趣旨がそもそもの始まりだ。亡くなられ登山家の長谷川恒男氏の関係者の尽力のお陰である。今年で11回目を迎えた。


最近は、本来の趣旨の登山関係者よりも、むしろ陸上関係のアスリート系の人やトライアスロンの人の方が最近では好成績だし、人数も多い感じだ。また、登山の行為よりも、スピード大会の意味合いが強くて、ルールではゴミを捨ててはいけなのに平気で捨てる人や、規定量の水分を持たないといけないのに、最初の荷物チェックが終わると水をある程度捨ててしまう人も多い。


さて、このレースは途中で予備関門4時間、第一次関門9時間、第二次関門15時間、第三次関門21時間と設定されていて、その時間までに到達していないと回収される。自分は、そんなに健脚でないので最初から24時間は無理だと思っていたが、15時間ぐらいは山で行動できるようになれたらいいなあと思って、8月末の締め切りギリギリに申し込んでしまった。去年の夏は体調が今ひとつすぐれなかったが、秋になったら調子も良くなるかと思った上での参加申し込みだった。


でも、全然イマイチの体調で、なんだか駅の階段なんかも軽快に上がれなくて大丈夫かな?。 でも参加費用が9000円ぐらいと高かったこともあって、当日はやっぱり参加してしまいました。


レース当日は快晴で、午後13時のスタートだと思ったけど、道が渋滞している状態で、後ろの方を歩いている感じだった。最初の今熊山に登る所からが、本当の山道になるけど、「これだけ多くの人に抜かされるのも、初めての経験だなあ。みんな健脚だなあ〜」ってのんびり構えていたら、女性の人と男性の人が無線機を持って現れて、いきなり「あなたが最終ランナーです!」って言われてしまった。ガビーン〜!!☆☆ いきなり栄えあるビリである?! 私は幼稚園とか小学校の低学年までは背が低かったので走るのは遅かったけど、それでもビリから2番目ぐらいだったのに。。。(その後は、結構速くなって、学年でも何番って位には1キロ走は速かったけど。)


とにかく、心臓がドキドキしてしまって、足が上に上がらない。ラストを見守る大会役員のことをスイーパーって言うらしんだけど、スイーパーの人に顔を売っておくのも悪くない(なんのこっちゃ!!)なんて、自分を励ましてなんとか今熊山の山頂に到着


今熊山の山頂付近にトイレがあったので、そこに入っている方々がいたので、なんとかビリは脱出した。そこから先は下りはまあいいんだけど、やや登りになったとたんに完全に足が止まってしまう。全然走ることもできないし、なんとか予備関門にはビリではないけど、ほとんどラスト数番で通過。ちょうど無線のスピーカーが聞こえて「一名リタイア者がでました」っていうのが聞こえて、内心「これでビリでなくなった」(情けないつぶやき・・ほっ〜〜)


それから後のことは、まあ、書くに忍びないほどの話だ。夜道を歩くトレーニングとしては、なかなか独りでは怖いので、こういう大会で、テープとか貼ってある状態で比較的安心?できる環境で経験できたのは、とてもよかったと思う。(それでも結構怖いかな?レースも前の方だと人も多いだろうけど、ほとんど一人旅状態かたまにしか人が近くを歩いていなかった。トホホ・・)


穏やかな月夜の晩だったからよかったけど、樹林は鬱蒼としているし、道は明瞭とはいえ、間違わないように、(事実間違ってしまっている人達にも遭遇)気を配り、ヘッデンは2個準備していて、転倒だけはしないように注意した。


当日の体調は、ほんの僅かな登りともいえない登りでも心臓が壊れそうな動悸がして、ダブルストックと、さらには道の左右の樹木につかまりながら、必死の思いでなんとか亀の歩みで歩いたのだった。またまたスイーパーの係員に遭遇。私の体調をライトで当てて見て、まだ行けそうと判断したので、歩かせてはもらえましたが・・・。全然疲れているわけでもないし、足もまだ筋肉痛でもないのだが、とにかく心臓が壊れそう〜〜。ぐるじぃ〜〜


せめて記録が残るように9時間の第一関門にあと少しで制限時間内というところまで来た。元気な時ならば、ほんの一走りの距離なのに・・・。無情にも、10分前後の遅刻で、第一関門の制限時間には間に合わず。結果はビリから確か十数番目?(後ろには20名はいなかった)


しばらく全ての人が来るまで30分ぐらい待って、それから大会役員の人も一緒になって結構な人数で集団で下山。先頭の山岳会の役員の人が、山の歌を歌っていた。久しぶりに山の歌を聞いて心地よかった。浅間峠からは、本当に下るだけの道だったので、気分よく、安堵感を持って楽しく下れた。


なんとか、無事に?下山したが、ここからが実は大変だった。リタイア者を回収するための車が手配されていたのだが、すぐには来ない。段々冷えてきて、かなり寒い。私はトイレをしたくなって、一旦登山道を少し登ったが、少し登っただけで再び心臓はドキドキしはじめた。皆の所に戻ったら、急に目の前の大地がグルグルと大きく回り始めた〜 震えもゾクゾク〜。役員用のテントまで這うように歩いて行き、「大地が回る〜〜」って訴えていたところ、役員用の1BOXカー1台がちょうど用事で通りかかった。その車には幸いなことに1名だけ空きがあった。


皆の乗る回収車よりも先に下ろしてもらえることになった。中には、第二関門で体調を崩した人も乗っていた。武蔵五日市の市街まで通常40分位の道のりだが、もともと車酔いする私なので、メチャクチャ苦しく長く感じた。車の暖房のお陰で体の震えは少しは良くなったが、正直吐きそうな一歩手前でなんとか控えの場所に戻った。


女性控え室に戻って、シュラフの中に潜り込んだが、ずっと心臓の動悸が消えない。鼓動が100m疾走した後のようのが収まらない。ドクドクと心臓の動悸がいつまでも収まらないので、私は心不全にでもなってしまうのか・・・。3時間位は、ずっとそんな状態で、ようやく収まってきたのは、夜がやや白み始める頃だった。酷使しすぎた心臓は、本当に疲れて痛いような感じだった。それにしても、自分はこんなに体力なかった?ここまで動悸がするのは何故?完全に落ち込んだ週末だった。


ところが、週明けに出社した月曜日に突然、会社で健康診断の結果を統括する部署の看護婦さんから、緊迫した声で「大変です!すぐに来なさい!」という電話がかかった。すぐに行ったところ、ガビーン☆★☆★というメチャクチャな数値が出ていた。約1ヶ月前に受診した結果だったが、恐ろしく怖い数値だった。この結果が、大会前にわかっていたら、絶対に参加しなかった。しばらく負荷のかかる運動はドクターストップになった。


この惨敗から1年。もっと健康な状態になったら、病人状態でもなんとか第一関門のタイムリミット近くの時間で歩けたので、まともな体調になったら、せめて第二関門の15時間はクリアしたいな〜って思うのだけど・・・・ 


それにしても、健康診断って大切ですね。それと失くしてからわかる健康のありがたみを実感しているものです。
                                       (2003年10月26日記)


 第51話  路上の喫煙

今日の日経新聞の土曜日のNIKKEIプラスワンという別冊のカラーの冊子の表紙に、禁煙に関してのアンケートが載っていた。一番禁煙して欲しいところは、第1位が「路上」で、第二位が「横断歩道付近」ということだった。


幸いなことに、私の勤務先の千代田区は路上喫煙禁止の条例が制定されて、施行されたので、いたるところに禁煙マークが路上に書いてある。特に横断歩道付近が多い。


私は、全くタバコを吸わないし、煙も大嫌い、家族全員が吸わない。この前の松本からの帰りも喫煙車ならすぐに指定席が1席だけ空いていたが、禁煙車に乗るために2時間も!松本で時間つぶしを兼ねた食事タイムとなった。


タバコは自分の肺を真っ黒にするのなら、勝手に自業自得だけど、周りの人の間接喫煙となると話がやっかいだ。他人の煙ほど不愉快なものはない。遠距離に行く時に喫煙車にやむなく乗ると、ものすごい煙の量で、むせてしまう。気持ちが悪くなって、これならば、立って行ったほうがマシという気分だ。


一番信じられないのは、くわえタバコで路上にポイポイ捨てる行為だ。ゴミを平気で捨てるというモラルが私には理解しがたい。ちゃんとタバコの灰や吸殻を捨てられる所で吸う人、喫煙コーナーで吸う人に対しては、本人にとってはすごい精神的なリラックスにつながっているのだろうから、肺がんのリスクを背負って理解して吸っているのだから、それはそれで、効用というものである。そういう嗜好のことをとやかく言うつもりはない。


私は、数年前に渋谷の繁華街を歩いていて、若者のくわえタバコで、手に持って振って歩いているのに、自分の手が当たって、すっごく痛かった覚えがある。火傷である。それなのに、謝らないで行ってしまおうとするから、大声上げて謝んなさい!って言ってしまった。(逆切れ相手にされなくてよかった。)そんなこともあって、それからはとても路上喫煙に対しては厳しい目を持つようになった。自分が被害者になったり、子供の眼にちょうどタバコがあたって、被害が出たりすることを、よく考えて行動してほしいもんだ。

正しい場所で、他人の迷惑にならずに喫煙することを守って欲しいもんです。。。。路上喫煙禁止の運動が、いつまでも、風化されずに、この運動が全国につながるといいなあ。
                                        (2003年11月1日記)


  第52話  山での喫煙

街での路上喫煙を書いたが、そもそもこんなことを書こうかと思ったのは、今年の夏の山での話しが発端だ。


8月に、西穂〜奥穂を目指していたものの、雨で取り止めて、西穂山荘から急遽焼岳に登り、そこから一旦上高地に下山して、そこから、とぼとぼと雨の中を傘を指して横尾に向かって歩いていた。ずっと雨で、本当につまんないなあって歩いていたら、前の登山者が、傘を左手で持ちながら、右手でタバコを吸い出したのだった。私よりも20m位先を歩いていたし、やや暗い森の中の道だったので、はっきりはしていないが、明らかに吸殻を携帯用の吸殻入れに入れるような動作はなかった・・・・・。 その人は、少し前に徳沢で少し会話とも言えない会話を交わした50代ぐらいの男性だった。なんだか、とってもその人に対してがっかりしてしまった。


横尾山荘に同じく泊まったので、その後も何故かおじさんは、私のことを覚えてくれていて、何かと話しかけてきたにはちょっとうんざりしたが。。。


思えば、学生の時のサークルの先輩が山でタバコを吸っているのを見て、とてもおいしそうに吸っていたのが印象的である。(よく、お酒とタバコというけど、お酒を飲みながら吸うとおいしいのかなあ?) 全然わかんない私だけど、とにかく、山の山頂で本当に美味しそうに吸っているのを見ると、吸わない私からみても、リラックスして、いい雰囲気だなあって思ったもんでした。(それと、先輩が吸っている間は出発しないので、もう少し休めるなあ、嬉しいなあっ〜て思ったもんでした。笑 )先輩は、必ず携帯用の吸殻入れを出して吸っているので、これが山男のたしなみと思っていた。


確かに、今は、観光地気分でどんどん山に登山者が入っている時代だから、携帯用吸殻いれなんてことを全く考えない人達も相当入山しているのだろう。観光地ならば、ゴミ捨て放題、ポイ捨て自由って感覚の人がまだまだ多いだろうから。。。 何もカッコイイ吸殻いれでなくて、単なる小さな空き缶一個でできることなのになあ。。。(最近見た女性の携帯吸殻いれは、小型の調味料か何かを入れるごく小さな空き缶だった。)


でも、やっぱり山での歩きながらのくわえタバコは、山頂や休憩の途中での一服とは違って、はっきり申し上げて見苦しいもんでした。見たくないものを見たという感じでした。
                                     (2003年11月1日記)


 第53話  禁煙カー 

前回、2コマにわたって、禁煙とか喫煙のことをネタに書いていたら、何故か書いた直後から、私の本業の仕事の方で、禁煙の件で振り回される自体になってしまった。今日の午前中にいたっては、仕事は、ほとんどそれで終わってしまった。(苦笑)


詳細は省くが、世の中にはタバコアレルギーの人が存在していることを初めて知った。私は煙は嫌いで、飲食店や列車では禁煙のところに座ることにしているが、アレルギーではない。あまりモクモクというのは困るが、微かに香る程度であれば、あるいは、いい香りならば、悪いとまでは思わない。(ヤニ臭いのは勘弁!) 今回仕事上、対応に携わった人は、タバコのにおいで、頭痛がするということだった。ふっ〜・・・。 (頭が痛かったのは、こっちだったりして。。。)  自分なりにベストを尽くして対応して、最後は、うまくいったからよかったけど、本当に参った〜〜〜。


そんな対応に追われていたらタバコをよく吸う人の何人かが、「自分の車の中では、絶対に吸わない」「家の中では吸わなくて、家の外で吸う」という人が結構いた。匂いがこもるからだろう。そういえば、以前住んでいた部屋は、前の人がヘビースモーカーだったみたいで、壁紙がかなり色が変わっていた。家の中で吸わないと言った人は、会社では喫煙ルームによく行って吸っている。でも、自分が住宅ローンを組んで建てたマイホームでは家が汚れることもあるし、子供さんにも害になるので吸わないんだそうだ。


なんだか、タバコを吸う人なのに、自分の家の車が禁煙カーっていうのも、なんだか自分にとっては、とても不思議に思ったけど、それもやっぱり車が大切だから、そうしているのかなあ?


ともあれ、禁煙騒動もなんとか収まりそうで、ほっとしました。
タバコの匂いが辛いというのは気持ちがわかるだけに、なんとかしてあげたかったけど、でも仕事上、無理難題をふきつけられたのは、なかなかシンドイものでした。やれやれ・・・・。
                                      
(2003年11月11日記)


 第54話 キナバル山登山競争

キナバル山は、日本から一番近い手軽な4000m峰(4095m)で、日本からのツアー登山客も大変多いところだ。東南アジアの最高峰で、マレーシアのボルネオにある。たまたま、15日(土)に、NHKの衛星第二を見ていたら、途中からだったが、キナバル山の山頂を往復する世界一過酷なレースという触れ込みの番組があった。


初日は女性レース日で、雨で過酷で倒れている選手などがでてきたところからチャンネルを合わせた。高山病プラス極度の過労という感じだった。


翌日は男性のレースの日で、大変すばらしい天気に恵まれていて、観光気分で色々と素敵な画像が出てきて、写真では見たことあるけど、画像で見るとうーん、こういう所か!!って感心して見てしまった。


肝心のレースのほうだけど、普通の人ならば2日間はかけて15時間ぐらいをかけて登って降りてくるのが標準タイムらしい登山道だ。それを、なんだかすごいスピードで駆け上がって、駆け下って、恐ろしい人間技とは思えない感じだった。標高差はたぶん2000mぐらいあるのかなあ? それを男子は2時間後半代?女性は3時間40分位だったか? で先頭集団はゴールする。男子では、150人参加で、50人ぐらいがゴールする。制限時間は、男子では山頂に2時間半以内に登ることが条件のようだ。


優勝しそうな人には、事前にいろんな取材もされていて、世界には、山登り登頂大会が幾つもあって、そういうのがワールドカップみたいに、ポイント制になっていて、ワールドチャンピオンとか?いう感じの話も出てきて、はぁ〜〜ってため息でちゃう話だった。世界の山々をトップクラスの人は転戦して競い合うというもので、世界中のトップランナーが登場していた。


キナバル山は、下の方はジャングルの中を階段状の登り、上は岩の道で、岩のところをガンガンかけ下るのを見ていて、体が壊れないか心配してしまった。富士山登山競争大会は登りだけのレースだけど、下りも含めてのレースというのは、かなり高速で怖いぐらいのスピードなので、世界一過酷なレースというのもわかる気がした。


キナバル山は、日本から近くて、ビーチリゾートもあるので(スキューバダイビングをやる友達は、このまえ行ったばかりの所です)、登った後で、のんびり観光なんていうのも楽しそうなところで、気軽な気分でいつか行ってみたいもんです

                                          
(2003年11月17日記)


 第55話  ボジョレーヌーボー

先週の木曜日の20日の日が恒例のボジョレーヌーボーの日。なんでこの日がワインの新酒の解禁日だか、下戸の私にはよくわからないけど、おめでたい日なんでしょう *(^O^)*


ところで、私の職場で、この日にとっても凄いこと?!が起こったのでした。先月会社の部署ごとのキャンペーン大会で、なんと私の所属の課がダントツの1位となったのでした。もし優勝したら、奢りましょうという所属のリーダーの一言で、メチャ頑張った次第でした。この所属のリーダーというのは、体調不良で定期的な通院を余儀なくされていて、結構難病らしく、本人の希望もあって、最近ラインオフした50歳代の独身!の超お金持ちの男性。都会の一等地にお屋敷を持っているらしく、前の課長時代にも大盤振る舞いで話題の方だった。ちなみに、バツイチでもなく、人柄もよく、うーん、容姿に関してはノーコメントという感じかなあ・・・。(ちなみに、本当の課長の方は、節約家で10年物位の中古車を乗っている人)


それが、今度のキャンペーンで、「(東京駅の前の)丸ビルの高層階で、豪華料理を奢るぞ〜〜!!」とリーダーが言っていたら、本当に優勝したので、あら大変! 丸ビルの35階と36階は、最低でも8000円以上のディナーしかないのだ! それが、なんと15人も女性ばかり☆★☆★ 社員に奢るのはわかるけど、仕事の内容の大部分が大量処理分野の人材派遣の人がメインなんで、その人達まで含めて奢るとは前代未聞! すごい太っ腹だ。


当日は、おフランス料理に、もちろんボジョレーヌーボーの高級ワインをつけて、36階でひとりコース1万円プラスワインなんで、たぶん20万以上の出費をされたようだ。


さすがに独身、やることが違う!それで、そのお味は?って書きたいんだけど、な〜〜んと、私のやっている仕事は、同じ課ではあるものの、全く違う仕事の内容で、キャンペーンでも全然優秀な成績でなかったし、もし奢るとしても、節約課長の配下なんで、何もなかったです。ざんね〜〜〜ん。丸ビル36階は、素敵な夜景だったそうです。自分は、6階までの普通の(と言っても、やや高めの)飲食店街で、ごくたまに行って我慢するしかないな。ラーメン屋さんも一応入っているし。(苦笑)


★後日談
私は15人を一度に連れて行ったのかと思いきや、当日どうしても都合がつかなかった人達が5人位いたそうだ。それでもって、第2弾として、後日太っ腹リーダーは2度目の丸ビルの豪華ディナーのご招待を行ったのだという。美女?達に囲まれて、2度も美味しいディナーを楽しめるとは、1度のネタで2度楽しいとも言えるのかな。 男冥利につきる?! さすがお金持ち氏は違うなあ。
                                    
(2003年11月24日記)